雑記

情報化社会が加速度的に成長してきた世の中で、優先して身に着けるべき能力とは?

情報化社会が加速度的に成長してきた現在の世の中で、優先して身に着けるべき能力とは?

 

YouTubeを代表としたあまたの動画コンテンツや、ツイッター等のSNSは一個人の発信力を爆発的に増大させています。今や、2歳児が親のスマートフォンを触り人気ユーチューバーの動画の再生リストを視聴する時代です。

 

勘違いしてほしくないのは、子どもたちがスマートフォンに触れて動画を見る事が問題なのではないという事。

 

高度な機器を幼いころから扱えるのは素晴らしい事だと思います。

我々が四苦八苦しながら作り上げた文化は、子どもたちにとってはおもちゃ同然なんですよね。感覚で高度な技術を駆使できるなら、大人になった時、論理的にそれらに触れたならばどれだけのイノベーションが起きるのか楽しみでなりません。

 

多くの情報に触れる機会というのは、それだけ可能性に触れるのと同義だと思います。

問題はその情報に触れる事でどのような影響を受けるのか、情報を自身が正しく理解しているのか、という事です。

 

これは子どもに限った話ではありません。情報に触れる人々すべてが意識しなければならない問題でしょう。私は昔から叫ばれていた情報リテラシーの重大さを、改めて叫ばなければならないと考えています。

 

しかしながら、複雑化する情報化社会において、提示された情報が正しいものかどうか判断するのはとても難しい……。

 

熱を帯びた誤情報は時として、社会全体を巻き込み経済に打撃を与えるという事実は、2020年度の新型コロナウィルスのトイレットペーパー不足問題を経て、しっかりと認識されていることでしょう。

 

覚えていますか? SNSの「コロナの影響でトイレットペーパーがなくなる」というデマが流れたことで、一時的に商店からトイレットペーパーが姿を消したことを。

 

政府からマスクの増産報道があったり、トイレットペーパーは無くならないことをニュースで伝えたりした後でも、転売や買い溜めは中々減りませんでした。

 

これは情報リテラシーの低さから生じる問題なのでしょうか。

 

いや、私は『道徳の欠如』が問題なのだと思います。

 

不安にあおられ、多くの人々が自分さえよければという感情が増している気がしました。

人より先に自分が価値あるものを得たい。人より先に安心を得たい。その為には、道徳を多少無視してでも利益を得よう。法的には問題ないから大丈夫。などなど……。

 

彼らの中に列記とした道徳があり、それをもとにする常識があったのならば……。

 

私の愛読する書物の中に「論語と算盤」という本があります。

今回はこの本の力を借りつつ、少しばかり意見を言ってみようかなと思います。

 

常識とは何か

 

では常識とは何でしょうか? 広辞苑では常識について次のように述べています。

 

常識とは:普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。 専門知識で無い一般的知識とともに理解力・判断力・思慮分別など含む(広辞苑より)

 

常識について、渋沢栄一は次の様に述べています。

「極端にならず、頑固にならず、善悪を見分け、プラスマイナスを識別し、言動が中庸に適うものである」

 

これを3つに分解したものが「智・情・意」になります。

すなわち「知恵、情愛、意志」の3つがそれぞれバランスを保ち平等に発達したものが、完全な常識である、とそう捉えています。

 

「智:知恵」とは

 

知恵とはその名の通り、物事を見分ける際に必要となる、知識や見聞のことです。これらがないと、人間は何が正しいのか、はたまた悪いのか。その判断を下すことが出来ません。

 

物事をうまく運ぶためには、それに基づく知識や理論がどうしても必要なのです。

昨今の情報化社会においても、情報の出どころはどこなのか、専門性のある確かな情報なのか、それを見分けるのはもはや必須の能力といえます。

 

では、知恵だけがあれば十分なのか。

そんなことはありません。日本語には「あたまでっかち」という言葉があるように、理論ばかりをこねくり回す人物は好ましく映りませんよね。

 

また、「法的には問題ない」という言葉を免罪符に、モラルに欠けるビジネスなどは、現代社会においても度々議論の的になります。

 

これは「智」ばかりが大きくなりすぎて、「情」が育っていない状態になると陥りやすいのです。

 

「情:情愛」とは

 

情愛とは、モラルに欠ける行動を行ってしまう、そういう時にブレーキを掛けてくれる、いわば緩和材のようなものです。情愛は極端な行動を取る前に自身を振り返り、果たしてこれは善なのかと語りかけてくれます。

 

智を得て情を持つことで、善たる行動に移れるのです。

 

しかしながら、情愛には欠点があります。

情愛は強い力である反面、それに流されやすいのです。

皆さんも経験があるはずです。

 

喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、愛しさ、憎しみ、欲望。

 

こうした感情は非常に強力で、引き起こす変化も大きく、これらをコントロールできないと、感情に流され正しい判断が出来なくなります。

 

これをコントロールするのが「意志」です。

 

「意:意志」とは

 

意志とは、情に流されない己を律する心の事です。動かされやすい感情をコントロールする力、それが「意志」です。自身の軸となる部分を見過たず、方向性を見据えるためには必須の力といえるでしょう。

 

しかしながら、この「意志」ばかりが強いとどうなるでしょうか。

 

いわゆる「頑固者」の完成ですね。

他人の意見を聞かず、自分の中の軸のみを注視することで、譲れない岩の塊となってしまいます。根拠のない自信に縋ってしまい、結果、深い水底に沈んでしまうこともあるでしょう。

 

まとめ

 

総合として、「智・情・意」この3つをバランスよく育てる事が重要なのです。

「強い意志を持ち、聡明な知恵があり、情愛で調節する」

このバランスが常識を育み、良き社会活動を行わせてくれるのです。

 

自身を振り返るに、私は「智」が大きくなりがちです。

つい最近も正論を振りかざし、家族と口喧嘩をしてしまいました。

 

この記事を書くにあたって、あらためて「論語と算盤」に目を通し、反省するばかりです。

 

「智・情・意」の3つを意識し、育てる事で複雑化する社会の中でも、良き「常識」を発揮し、適切な行動が取れると私は信じています。